神さまと出会うミサ「四旬節 黙想会」     担当報告 : 評議会


3月6日(土)~7日(日)四旬節第3主日に、行橋小教区の黙想会が行われました。
今年の黙想会はテーマを「ミサ」として・・日本カトリック神学院より嘉松宏樹神父(長崎教区司祭)さまを
講師に迎え・・私たちが、神さまを最も身近に感じる(意識する)ミサについて・・お話ししていただきました。

土曜日の午後に豊津教会で行われた黙想会には、豊津の信者さんをはじめ・・
行橋からも日曜日の黙想会に参加できない方たちが足を運び・・一年に一度しか行われない
黙想会に集い、日頃なんとなく与っていたミサ?・・の、本当の素晴らしさや意味(ミサでいただくもの)を
あらためて・・神学院で大神学生に「典礼学」を教える嘉松神父さまから伺って
信者としての義務や務めと言うのではなく・・信仰のもつ本質的なものを感じることができたようです。

行橋教会では主日のミサから始まるプログラムで始まり・・ミサのなかで洗礼志願者の祝福式が
行われるため、福音朗読を洗礼志願式に読まれるものに変更して典礼の豊かさを教えて下さいました。


ミサ後の黙想会の講話では・・ミサの一つ一つの深い意味を取り上げながら・・
時折、長崎弁を使い楽しいお話しも交え・・私たちに、わかりやすくお話ししてくださいました。


キリスト者が主の日に教会に集う意味・・「ことばの典礼」「感謝の典礼」の豊かさ・・
神さまのほうから私たちに近づいてくださる・・「神さまと出会うミサ」で「信じる力」をいただく・・。
キリストが一緒に捧げてくださる・・「和解のいけにえとしてのミサ」・・回心の祈りや主の祈りで唱えられる
人間が神さまの前にでるための・・捧げるための・・交わりのための・・時間や空間や次元・・
すべての違いを超えて赦し合うことができる・・「和解する力」をも、与えてくださいます・・。
神さまから与えられる恵み・・つながりの大切さ・・パンがキリストの体であること・・
「キリストの体」ご聖体をいただくことによって・・ご聖体が私たちの体になるのではなく・・
私たちが・・教会に集う一人ひとりが・・キリストの体の部分として生かされる・・
私たちは・・異なったまま ひとつの「キリストの体」になるということ・・。
そして・・遣わされると言うこと・・ひとつのキリストの体である私たちは・・それぞれに
キリストの使命を生き続けます・・。神さまの存在が人に見えるように、また・・人が神さまを信じて
生かされるように、と言う働きをいただいて・・それぞれの生活の場に派遣されて行くのです・・。
ある人はキリストの優しさを示すために・・ある人は貧しく虐げられた人々のために海外にまで出て
積極的にボランティアとして尽くし・・奉仕するキリストの姿を世に示します・・・
でも大半の人が・・私たちに、そんなことはできないと思うかも知れませんね・・・
それでも良いのです・・私にはできないけれど・・その人たちの幸せを願い、思い、祈りで支える・・
それぞれにできることで支える・・私たち一人一人がキリストの体である以上・・信じる者の唯一のルールは、
あの聖ビアンネが示したように・・「神さまを喜ばせることだけをする」と言うこと・・
神さまが喜んで下さることだけを考えて自分にできることを行えば良いのです・・。
~目が足に向かって・・おまえは目ではないから、いらないと言えるでしょうか・・
私たちの頭はキリストなのです~パウロの手紙にも書かれていますね・・と、話し
ミサに集うことの意味・・キリスト者としての喜びや生き方までも、お話ししてくださった気がします・・。

黙想会の終わりに心をあわせて聖歌を歌い・・山元神父さまと嘉松神父さまの派遣の祝福をいただき
それぞれの生活の場へと派遣されて行きました・・。「ミサ」がテーマだった今年の黙想会・・・
信じて教会に集うことの素晴らしさ・・豊かさと、その恵みの深さと喜びを・・
あらためて感じることができました・・。神さまに心を向けて歩む四旬節に・・
神さまとの つながり・・ひとつのキリストの体として集う教会共同体との つながりに
感謝しながら・・神さまの喜ぶことだけを考えて歩み続けたいと思います・・。

(嘉松神父さまのお話しをダウンロードして聴くことができます。)

 お話し①       お話し②       お話し③
  
 (33′57″)    (1h 4′49″)     (36′43″)