「聖書とは ?」2009、聖書週間特別講演会  担当報告 : 評議会


11月15日(日)聖書週間が はじまったこの日の午後、カトリック小倉教会において
福岡教区聖書委員会主催の「聖書週間特別講演会」が北九州地区信徒協、聖書部会
共催で、雨宮 慧 神父さま(聖書学者、上智大学教授)を講師に迎えて行われました。

講演会のはじめに、北九州地区聖書部会担当の山元 眞 神父さま(行橋教会主任司祭)から
今年度5回目となる北九州地区聖書講の趣旨と、特別講演会の講師としてお招きした
雨宮 慧 神父さまが紹介されたあと・・聖歌が歌われ・・「聖書とは ?」と言うテーマで
雨宮神父さまの講演会が始められました。

はじめに雨宮神父さまは・・みなさんの聖歌を聴いて・・久しぶりに元気な教会に来たな〜と言う
気がしました・・少しだけ頭にあるものを変えて、お話ししようかな〜と思います・・。
聖書とは・・?というと・・カテキズムのようなものですと、普通は神の存在証明といったところから
始まって行くわけですけれども・・私は、むしろ人間がどういう存在であって・・
このような存在は、神をかならず必要とするものなんだ・・と、いうことを説いているのだと思います。
そのことを今回・・お話しさせていただければと思います・・・と話し、
用意したプリントに沿って聖書の個所を解説しながら、お話を進められました。

人間というもの・・旧約聖書「知恵の書」(2章1節〜20節)をとりあげ「人間の本領」について
書かれている・・私はこれを読んで10節以降がおもしろく書かれていると思います・・
6節〜9節までは人間の生き方の不十分さと言うことを示しているのだろう・・
5節までは我々の動かし難い人生の事実・・・人間の(人生の)事実に対して聖書はどこかに・・
この「弱くはかない」と言うことに対する聖書の提案が書かれているはずなのです・・
その聖書の提案を読んでみたいと思います・・と、詩篇103(9節〜16節)をとりあげ・・
憐れみ深い神の本質と人間の弱さ、はかなさ・・が、対応するように書かれている・・。
つまり神さまは、どのように造るべきかを知っていて人間を弱くはかなく造った・・
人間の弱さは神の憐れみに出会うためのものだ・・神に出会うことができるように・・
神は、わざわざ人間を弱くはかなく造られた・・・弱くはかないと言う・・
人間の欠けは絶対的な憐れみを持つ神に出会うためのものであり
人間は神なしに満足した生き方はできないと言う考え方になります・・。
これは・・日本人にとって馴染み薄い考え方なのかも知れません・・・日本人はむしろ
努力と言うことを考えます・・弱さ、はかなさを努力によって克服する・・と言うことに意味があると
考える・・しかし、こういう生き方は・・言わば神が存在しない生き方と言えます・・。
こういう生き方を聖書は「肉」という表現で表わしています・・それをこれからお話ししたいと思います。

「肉という生き方から霊という生き方へ」・・新訳聖書(ローマ8章12節〜17節)から
この「肉」という表現は「肉欲」と言う意味で捉えがちですが・・例えば、コリント(一)1章・・
人間的にみて・・と言う表現は原文では「肉」となっています・・・ここでいう「肉」と言う表現は
神と無縁の、ただ人間として生きている・・と言った意味である言えます・・。
神と無縁であるために弱く、はかなく消え去る存在でしかない人間・・・そういう生き方に
対する義務はありませんと言っている・・・神の霊に導かれるときに人間固有の
弱さ、はかなさが消えて行く・・・キリストに つながることによって・・「肉」ただの人間という
生き方から・・「霊」神の子と言う生き方に変えられているんだ・・と、言うことです。
次に・・「人と神との間の儀」・・(ルカ18章9節〜18節)を見てみましょう・・・。
ここは、イエスが語った例えです・・・ファリサイ派の人々の生き方は・・確かに神に感謝するとは
言っているのですが・・しかし神とは ほとんど関係がなくて、神の憐れみを必要としていない・・
自分の力で、努力で克服しようといている人と言えます・・こういう人のことを「肉の人」と言います・・。
これに対して「霊の人」と言われる人は・・神の力のなかで生きている人となります・・。

15分の休憩後・・・「人間は神を必要としている」・・それを聖書は神の存在証明と言う方向から
始めるのではなくて・・人間とは何か・・誰か・・?ということを書くことによって主張していると言えます。
マタイ福音書からユダの話・・・ユダの死の場面で書かれている銀貨は・・ユダの後悔の深さ・・
イエスへの裏切りの象徴とも言えます・・。確かにユダは罪を告白しているわけなのですが・・
ユダは・・旧約聖書に書かれているダビデのように、主に(神に)対して罪を告白していない・・
〜わたしは主に罪を犯しました・・この「主に」が大切なんですね・・。人間は自分では罪を処理できない・・
旧約聖書の詩篇などを参考に話し・・人間には罪を許す力がない・・生涯その罪を背負って生きるか・・
人間を超えたものに許していただくより道はない・・と言うことです・・。誰との関わりのなかで
罪を見ることが許されることなのか・・?が大切なのです〜ユダは、たぶん誰に罪を許していただけるのか
知っていたのですが・・もっとも大事な時に信じ切れなかった・・罪を真に告白できなかったことに
ユダの失敗があった・・。イエスへの裏切りが決定的な失敗だったわけではないのです・・。
なぜなら・・ペトロも裏切っているわけなんです・・ペトロは、イエスの言葉を思い出して激しく泣いた・・。
〜わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く・・・
イエスは裏切られることを知っているが・・弟子たちとの関係を切ることはない〜
ペトロの涙は後悔への涙ではなく・・イエスの悲しい愛に気づかされたからではないでしょうか・・。
後悔と・・悔い改めは違うのです・・〜コリント(2)8章8節〜10節〜
神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる・・イエスの悲しい愛に・・
その悲しみに ふれることのできた悲しみは取り消されることのない救いに通じる悔い改めになった・・。
世の悲しみの代表は「主に」罪を犯しましたと、言えなかったユダでしょう・・
ユダの後悔は激しいものだったが・・世の悲しみに終わった・・と、話し終え・・質疑応答に入りました。

短い時間で・・たくさん素晴らしい みことばを味あわせていただきました・・・
雨宮神父さまの聖書講座は少し難しい・・と思われた方も 居られたかも知れません・・?
しかし・・皆さん しっかりとメモをとりながら聴かれていましたので・・今日、いただいた資料や
また、「今日の みことば」なども参考にしながら・・何度も繰り返し・・聖書の言葉を
味わっていただければと思います・・と、山元神父さまから終わりの挨拶がされ・・
祈りにかえて聖歌を歌い祝福をいただいて聖書週間特別講演会は終了しました。

雨宮神父さまの「特別講演会」は、2007年に続き2回目・・前回も参加された方や
毎回、地区の聖書講座に参加されている方など・・約140名を超える皆さんが参加してくださいました。
へ〜こんな見方があるの・・と、驚きの感想や・・良かった〜の声もあり・・
聖書週間の趣旨にかなう素晴らしい特別講演会となりました・・。
講演してくださった雨宮神父さまは、もちろん・・
企画や準備をしてくださった皆さんに感謝いたします。

講演会での お話しをダウンロードして聴くことができます。

(お話し@)       (お話しA)
  
(1h02′10″)    (44′06″)